あなたが勉強をしてもしなくても学問に還元される要素はありません。
勉強とは既知の事実を学ぶこと。
テストはその到達点をはかるもの。直線上の優劣として表現される。
既存の学術体系をトレースしたもの。
勉強をいくら極めても、そこから新しい発見は発生しない。
誰かに聞いて答えが返ってくるものが勉強。
誰に聞いても答えがはっきり返ってこないところが学問の始まり。
北に誰かが50歩あるいたとする。東に30歩あるいたとする。このようにして、過去の人々が歩いて踏み固められた領域(知識体系)が文明。
この領域の中で、人々は自由に歩ける。
勉強の途上にある人は、どこが先端(フロンティア)かはわからない。
最前線には先輩たちがいる。
最終的に先輩の背中が見えて、横に立つ。そこから先は勉強すべきものは残されていない。
フロンティアから先には、まだ誰も足を踏み込んでいない領域が広がっている。
君がそこに足を一歩踏み出す。そこで足場を踏み固める。
この瞬間が人類の文明を、広げる作業になる。これが学問である。
横を見ると、同じように文明の最先端(フロントライン:知の地平線)で足場を踏み固めている人たちが並んでいる。
文明を広げる行為が学問。この文明を広げる行為をしているとき、君が行っている研究は、人類そのものの、いとなみである。
だから、学問というのはアクションなんです。
優劣で判断されるものではないのです。
そして、この文明を広げる作業(フロントラインで足場を踏み固める作業)をしているとき、足の裏から伝わる感覚というのは、麻薬に近い情動を生む。
人間には動物的にプログラムされた欲求がある。
学問にハマった人は、この遺伝子レベル(繁殖、衣食住の安泰)でデザインされた動物レベルの欲求を吹き飛ばしてしまう。
生存して自分の遺伝子を優先的に残すよう、人類(遺伝子)はデザインされている。
全員が生き残れない。自分の遺伝子を残すためには競争が必要。
群体としての人類は、上限の存在しない文明(学問)を獲得形質として後世に残すことができる。
そうなると、遺伝子を残すよりも、上限のない文明を残す方が合理的ではないだろうか。
高校生が勉強が嫌になっちゃったとしましょう。
一番簡単なのは、勉強は身だしなみだから、まずは身につけようって話です。ドレスコードと同じ。ネクタイ締めてこいよと言われたら、ネクタイ締めるでしょ。
今日の着地点。学問って楽しいですよねというお話でした。上質な麻薬ですよ。
学問を始めるためには、勉強を終わらせないと学問は始められないんです。