いまだ金時ラジオ

いまだ金時ラジオ 第7回 嫌われる勇気

フランケン
フランケン
過去に紹介した僕らのライフハック哲学を実践するためには、メンタルがタフでないと厳しい。
博士
博士
ということで、お待ちかねの嫌われる勇気のご紹介。
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主題1ライフハック哲学を実践するために必要なのは「勇気の心理学」

第6回までやってきたこのラジオ。
僕たちの人生哲学について書籍を紹介しながら話してきた。

・エッセンシャル思考
・クリックモーメント
・錯覚資産
・フラクタル(複雑系)

これらのキーワードで、僕らが考える「幸せなキャリア形成」を解説した。いわば、総論。

仮に、この総論を参考にしてくれる人がいたとして、これを実践できるのか?
というと、どうしてなかなか難しいハズだ。

道は見える。僕らはそれぞれ、そこを歩いている。
前を歩いている人間が見えるってことは、後に続く人にとってはありがたいことだと思うけど、一歩を踏み出すにはなんらかの思い切りが必要だろう。
自分を後押しする何か。

僕が大好きな本から、ひとつメッセージを紹介しよう。
マクダウェル. A. K. エバンジェリンで、
「あらゆる局面において重要となるのは 不安定な勝算に賭け 不確定な未来へと自らを投げ込める 自己への信頼・一足の内面的跳躍 つまり「わずかな勇気」だ」
カッコいいでしょう。
勇気とは、自己信頼だっていうんですよ。

今日紹介する本は、まさに、自分の望む人生を生きる勇気、についての本です。

まさにそのとおり。アドラー心理学は勇気の心理学。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではない。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ〝勇気〟が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

この本が取り扱うテーマ。

極論すると、
自分の人生をどう生きるか?
ということに尽きる。
僕はそう解釈した。

あなたが何に悩んでいるのか?
優越コンプレックスという概念を用いて、「他者から見える自分、という視点」これががあなたを苦しめている、と、そう説く。

これに苦しむ人は、「自分の人生は自分のものだ」という一風当たり前の価値観で生きることができない。
ユダヤ教のタルムードでいうところの、他人の人生を生きている状態に当たる。
まずは自分の人生を自分のために生きる。
この「当たり前」に立ち帰れ。
これが前半のメッセージになる。

これについて、目次代わりに、キーワードを列挙しておこう。
順次出てくるから、確認しながら聞いてくれるといいよ。
・原因論と目的論
・自責論
・課題の分離
・共同体感覚
・他者貢献

主題2アドラー心理学 前編

まずは、アドラー、何者?というところから入りましょう。
そして、日本でアドラー心理学がどういう形で人目に触れるようになったのか、その辺りを教えていただきましょう。

アドラー心理学を提唱した、アルフレッド・アドラーとは何者なのか?
20世紀初頭に活躍したオーストリア出身の精神科医。フロイト、ユングに並び「心理学の三大巨頭」と称されている。
アドラー心理学から、僕は2回大きな影響を受けている。1回目は大学生の時に読んだ、7つの習慣。ちょうどこの本にでてくる成人のような立場のときだ。スティーブン・コヴィーの7つの習慣でも近い内容が語られている(第1章主体的であれ)。
そして、2回目がアカデミアを去ることになる40歳前後の葛藤の時期。

「どうすれば人は幸せになることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な答えを提示。
そして、嫌われる勇気は、岸見一郎(きしみいちろう)という一人の哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、いわば岸見アドラー学なのだ。

この本は哲人と若者、という2人の人物の対話の形式で構成される。自分の人生にドン詰まった若者に、哲人が答えを与える。若者は反発するが、その反発に哲人はさらに答えを提示することで若者の意識を変化させていく。終始この構造が崩れることがない。

これはいわゆるソクラテスの対話法とは少々異なる。若者の中にある答えを引き出しているのでもなければ、若者の中にある間違いを浮き彫りにするものでもない。

この本の中の哲人は思想家として描かれるけれど、テーマの基本が治療であるからだ。
治療とは方法論と再現性がなければならない。
デザインされた効果をデザイン通りに発現させる。それが治療だ。
だからこの本で処方されるメッセージは、同じ症状、つまり個人的な問題を持つ人間に同じ効果をもたらすように、ある意味万能的にデザインされている。
そう言った意味で、哲人のスタンスが相手によってブレることがない。

この本は、「誰かしら読めば何かが得られる」、という類の自己啓発本とは趣がやや異なる。薬なんだから当然だろう。
鎮痛剤は、痛みを抱える人にはよく効き、痛くない人にはほとんど意味がない。
アドラーは精神科医である、そう言った意識でこの本を読んでみると面白いだろう。

第1夜 トラウマを否定せよ。

人は変わりたくても変われない。両親から虐待を受けて育ったから愛情を知らない大人になる。このような、トラウマを代表とする考え方、つまり、過去に原因となる出来事があり、その結果として今の自分という人格が形成されている。
それ以外にも、「あいつが邪魔をするから俺は出世できない」など。原因は過去の体験や環境といった自分の力の及ばない場所にあるから、自分がかわることはできない。
このような決定論を完全否定するのがアドラー心理学の立場である。
トラウマを否定せよ!(具体例をこのあと説明します)

これは師であるフロイトが、なんでもかんでも「抑圧された性欲」という無意識のせいにしちゃった事に対する意見の相違が現れている。無意識、っていう概念はフロイトが作ったと言っていいんだけど、目的論が無意識を否定していないところは興味深い。

1つここに現代風の解釈を加えるのであれば目的論とは過去の否定であると捉えることができるだろう。

過去の究極的な肯定とはすなわち機械学習型の人工知能であると言える。
Deepラーニングに代表される機械学習型の人工知能は過去の実績の結果を正しく反映する予測装置として機能する。現在の人工知能においては過去に見られなかった傾向というのが選択される事は無い。すなわちすなわち機械学習における人工知能が導き出す最も効率的な意思決定とは原因論に他ならない。

機械学習型人工知能の限界を、創造性の欠如であると結論づけた最近の風潮が、アドラーの原因論の否定と重なる点は実に興味深いと言える。

アドラー心理学は、決定論ではなく目的論を使って人々の心理、行動パターンを解説する。
喫茶店のアルバイトの子が誤ってコーヒーを自分の服にこぼした。思わず大声で怒鳴りつけてしまった。怒りの感情にさからうことができず怒鳴ってしまったというのが決定論。
これをアドラー心理学では、大声をだすという目的のために怒ったと解釈する。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手をより安直な手段で屈服させようとした。その道具として怒りの感情を使った。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。

言い換えるならば原因論とは責任転換である。本当の目的を覆い隠すために過去の原因を引っ張り出しているに過ぎないとアドラーは言う。
すなわち、原因論は他責論であり目的論は自責論である。
この考え方は極めて厳しい。
これって、他人に言われたら説教だけど、自分で気が付けっていうところが難しい。大事なことは、自分の中から発生させた問題だから、自分の中で解決できる問題だよ、って図式の前提作り。

第2夜 すべての悩みは対人関係

人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである。これはアドラー心理学が発する大きなメッセージ。つきあう人間を主体的に選べるようになるとストレスは大きく減る。他人を変えようとしない。そうではなく、自分の解釈を変える。自分の及ぼせる影響の輪に集中する。

対人関係の軸に競争をおいてはいけない
対人関係の軸に競争があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができないと説く。他者と競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感。いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを敵だとみなすようになる。競争の恐ろしさはここにある。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身をおいている人は心の安まる暇がない。敗者になりたくない、敗者にならないためには勝ち続けなければならない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争の世界に生きているからです。

他者がいる事を否定してるわけじゃない。そうじゃなければ、人目から逃げて山に篭れっていう話になりかねない。ジャッジをするのは他人じゃなくて自分、そう意識を変えていくのが大事っていうメッセージにつながっていくんだね。
後半では、具体的な他者との関係の中における自分、というものについてのスタンスが展開されます。

主題3アドラー心理学 後編

さて、岸見アドラー心理学、ここまでで、「自分が主観的に抱える問題は、自分に起因する問題だ」っていう事を気づかせてくれた。
順風満帆で生きてる人は、そんな事を悩まなくてもいい。だって、主観的には問題を抱えてないんだから。でも、逆に風向きが変わった時には大きな壁を感じるかもしれない。医療クラスタの人って、基本理系のエリートだったりするじゃない?こういう人が人生で初めてぶち当たる壁って、ちょっととんでもない事が多い。僕の周りにそれこそいっぱいいましたよ。生き死にに関わる問題にしちゃうような人達。
アドラー心理学は、そういったアイデンティティの崩壊に優しい。実家のようなセーフティ。
ここから先では、自分の問題なんだから自分で解決できるんだいっていう事をおしえてくれる。
哲人が。それこそ力強く。

本当にそのとおり。人生の壁にぶち当たった時に、それをその場しのぎで乗り越えてしまうと同じ課題にまたぶち当たる。岸見アドラー心理学は、自分の脳内のOSを根本的に変えてしまうくらいのインパクトがある。

第三夜 他者の課題を切り捨てる

他者からの承認を求めることを否定する。あの人の期待を満たすために生きてはいけない。

あなたは、あなただけの人生を生きている。誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。もう一度いいます。他者からの承認を求めることを否定する。あの人の期待を満たすために生きてはいけない。ここはエッセンシャル思考にも通じるところ。

エッセンシャル思考にも、タルムード学で紹介されてた。ユダヤ教の古典。タルムードには、なるほどと思わせられるものがいっぱいある。
本は横に読む、他の本との関わりを意識しながら読むと、新しい発見があるね。

課題の分離
たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。さて、もしもあなたが親だったら、どうしますか?
アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。他者の課題には踏み込まない。それだけです。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他人の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?を考える。

この命題は、実はアドラー心理学の是非を真っ二つに割る命題と言える。これが高校生ならどうなのか、小学生なら?乳児にも当てはめる事が出来るの?自責マインドは未成熟な人格に求められるのか?という議論からアドラー批判は展開される。高層マンションのベランダの手すりで遊ぶ幼児を止めるかどうかは他者の課題への干渉なのか?というふうに。
もっともな批判だよね。でも、この問題こそ、アドラーが治療に携わる医師のスタンスを取っていた事に留意して考えたい。確立した人格を持っている人間がアイデンティティを喪失している状況に対する薬として、この心理学は作用する。未発達は病的精神状態ではないよね。
ちなみにこの、未成熟な自己、についての自由と制限については、飲茶先生の正義の教室でわかりやすく論じられている。
少なくとも人格が発達したと見なされる僕らに関しては、自責マインドでを容認する立場で考えたい。この弱点を掘ることはアドラー心理学の薬としての機能を無意味に損なうのだから。

自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方でその選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。相手が身分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。

他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとり介入させない。これは具体的でなおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点である。対人関係のカードは常に私が握っている(自責マインド)。

自由とは他者から嫌われることである。自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり自由になれないのです。

僕なりの解釈だけど、これを「厳しい」と取るのか、「救いだ」と取るのかで、聞いている人が見ている世界観がわかると思う。
ある程度、自分の立ち位置を確保できている人っていうのは、このメッセージを「厳しい」と取るだろう。「自分の立ち位置を今より強固なものにするには、他者とのフリクションを物ともせずに自分のポジションを取りに行け」っていうメッセージと受け取るからだ。確かにそれは滅茶苦茶に厳しい。
でも、ベコベコに凹んでいる人間は、正常時であれば当たり前に出来るような事柄に精神的ハードルを抱えている。それこそ、休日に買い物に出かける事に罪悪感を感じるようなレベルで。
おそらく、本当に他者に嫌われる事を勧めてる訳じゃない。そういうつもりで動いてもいいんだよっていう「許し」のメッセージなんだよね。

第四夜 世界の中心はどこにあるのか

課題を分離することは対人関係の出発点。対人関係のゴールは共同体感覚。他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられることを共同体感覚といいます。共同体の範囲は無限大なのだと考える。より大きな共同体の声を聴け。職場の対人関係で悩んだときは職場の外部の別の居場所を見つけたらよい。
そして自分を中心に世界がまわっているのではないということ。あくまで全体の一部である。(これはフラクタルの話を理解するとわかりやすい)

我々が他者を褒めたり叱ったりするのはアメを使うか、ムチを使うかの違いでしかなく、背後にある目的は操作です。誰かに褒められたいと願うこと、あるいは逆に他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を縦の関係としてとらえている証拠です。アドラー心理学ではあらゆる縦の関係を否定し、すべての対人関係を横の関係にすることを提唱している。そして、すべての対人関係を横の関係にしないといけない。対人関係に1つでも縦の関係を築くと、縦の関係から抜け出せなくなる。
横の関係に基づく援助のことをアドラー心理学では、勇気づけと呼んでいます。自分に自信を持つために、まずは他者との間に、ひとつでいいから横の関係を築いていくこと。

この考え方は、既存の組織の中では絶対に体感できない。なんでもいいからニュートラルな関係のコミュニティに属してみる事だ。同じ方向を目指している人の、メッセージを眺めるだけでもいい、何かの役に立つと思うのなら、やってみるのもいい。コツとしては、「世の中の他人が全員自分だったら、これをやったら満足してくれる自分がいるかな」、というくらいの気持ちでやってみるのがいい。
何の気なしに開いたフォルダのファイルが、時系列にネーミング去れてたら、過去の自分、グッジョブ!って思うでしょう。そんな感じで捉えていい。

第五夜 今、ここを真剣に生きる

共同体感覚を持つために必要になるのが、自己受容と他者信頼、そして他者貢献
自己受容とは、ありのままの自分を受け入れ、変えられるものと変えられないものを見極めること。
ニーバーの祈り
神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ

他者信頼
他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと。無条件の信頼とは、対人関係をよくするため、横の関係を築いていくための手段。そのかわり、もしあなたがその人との関係をよくしたいと思わないのなら、ハサミで断ち切ってしまっても構わない。断ち切ることはあなたの課題なのです。
大学生の頃は、「好きな人、嫌いな人」がいた。アドラー心理学をある程度習得した今は、自分の周囲が「好きな人」だけになり、嫌いな人がいなくなった。これは正確にいうと、大好きな人が数人いて、あとはフラットな横の関係を築く無数の人達という構成。その背景にあるのが、課題の分離であったり、対人関係の軸に競争を置かないこと、縦の関係を否定し、すべての人と横の関係を築くこと。他人を変えようとしない。そうではなく、自分の解釈を変える。そして、対人関係のカードは常に自分が持っていることを理解すること。
そうすることで、他者信頼、あとからでてくる他者貢献につながる。

仕事の本質は他者への貢献
他者貢献とは、仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。たとえ目に見える貢献でなくとも、私はだれかの役に立っているという主観的な感覚を、すなわち貢献感を持てればそれでよい。

フランケンラジオ第89話で、時々正確な時を刻まなくなる時計(実は奥さんが日時をあわせていたという話)がまさにこれ。
幸福とは、貢献感である。それが幸福の定義である。
もし本当に貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなります。わざわざ他者から認めてもらうでもなく、私は誰かの役にたっていると実感できているのですから。

そんな大層な話で(笑)
うがった見方をすると、後半のメッセージは、「自分勝手に生きろ」という意味ではない、というエクスキュースとも取れる。
他者からの評価を否定し、承認欲求も否定する。
しかし、人間にとって、他人の構築した社会との関わりそのものを否定することは意味がないため、社会との肯定的な接続を示す必要がある。

自分と他人を含んだ「共同体意識」というものを設定し、それに対する「貢献」に価値を与えることで「他者との関わり絶った自分勝手な生き方」を否定している。我々は、他者との関係をより良いものにすべきなのだ、と。

ここで特徴的であるのは、共同体は、具体的な人間からなる集団ではなく、仮想的な高次構造として捉えられる点だ。具体的な人間が存在すると、その人物からの承認を必要としてしまうからだ。
さらに言えば、必要なのは「貢献」ではなく「貢献感」である。「感」が付いているところがミソだ。貢献感は自分の中で完結できるファクターである。
他者貢献においても、この意味において、他者は必ずしも存在しなくてもよい。成り立つのである。

人生とは連続する刹那である
人生は登山のように目的に向かうものではない。人生は線ではなく、人生は点の連続である。われわれは、いま、ここにしか生きることができない。我々の生とは刹那の中にしか存在しないのです。人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。ダンスを踊っているいま、ここが充実していればそれでいいのです。ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとはだれも思わないでしょう。

いま、ここに強烈なスポットライトを当てよ
人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。しかし、もしもいま、ここに強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。ライフスタイルは、いま、ここの話であり、自らの意識で変えていけるものです。
ちなみに、飲茶先生の「最強のニーチェ」という本の中では、
永劫回帰(えいごうかいき)を否定せよ。そして、いままさにこの瞬間にスポットライトを照らすのだ。「今この瞬間」を肯定できる人間のことをニーチェパイセンは「超人」と呼んでいる。ぜひよんでみてほしい。

この話を始めると、僕はくどいよ。

やっぱりこれはニーチェの大いなる正午と同じものだね。

この本のメッセージとして1番ビンビン来るのは、

「人生最大の嘘とは、今この瞬間を生きない事」というフレーズだ。
今この瞬間を生きる事で、人生は完結しているのだ、と。

そして、「他者貢献、これを指針にしろ。これを目標に掲げる限り、他人がどう思おうが、惑わされることはない」

もうほんと、明日死んでもいいっていう生き方を強調すると、それで長生きしちゃったらどうすんの、とか批判する人が湧くんですよ。
逆に言いたい、あんた、今死ぬとして、満足して死ねるの?と。
僕はコレばっかだね。
でも、究極的には、全ての哲学書っていうのは、形を変えてこれを伝えようとしているんだよ。

一般的な人生の意味はない。人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ。
私が変われば世界が変わる。私以外の誰も世界を変えてくれない。

主題4フランケンの説教ポエム

アドラー心理学には様々な方面から解釈と応用が試されてきた。
共感と批判も数多くあった。

説教ポエムとしては、アドラー心理学をどう取り入れるべきか、という命題について考えて見たい。

・ポストモダンとしてのアドラー心理学

第6回で紹介した、ポストモダン、という流れを思い出して欲しい。ポスト構造主義、とほぼ同義で、構造主義のどん詰まりの思想体系に当たる。この辺りは長くなっちゃうので今日は割愛するが、この思想は哲学の終焉を意味している。フランケンラジオの73話ボードリヤールの話でやった。

アドラー心理学もそうだが、いわゆるポストモダン、ポスト構造主義には、えも言われぬ「ずるさ」があるという批判を知っておかなければならない。
ポストモダンが共通して持っているずるさとは、全ての批判を自説のなかで絡め取ってしまうずるさだ。
この本は、2人の登場人物、若者と鉄人の対話によって構成されている。
若者は鉄人に対して否定的なスタンスをとり、若者の問いに対して鉄人が答えを与えるスタンスでストーリーが展開する。この形をとったのはおそらく偶然ではない。ポストモダンには、理論に矛盾がなく批判を吸収してしまうポテンシャルがある。あらゆる問いも、その理論の中で答えを導き出してしまう構造を持っている。したがって若者が鉄人に問いを投げると言うスタンスでは初めから若者に勝利はない。

飲茶先生は、このずるさが哲学を殺したと言っている。まあ、僕たちのような一般人にとっては、哲学が死んでいても死にかけていても、明日の生活にはなんの影響もないのではあるけど、これらのポストモダン全般の説を信じるか、自分の中に飲み込むか、という時にはなんらかの主体的な決断が必要になる。
騙される勇気、とでも言おうか。
この説が間違っていたという後悔を、しない覚悟、みたいな意味だ。

これをシャープに論じたのがカール・ポパーだ。
ポパーが提唱した反証主義では、いわゆるポストモダン全般に見られる、反証可能性の無い理論を、科学では無いと断罪する。否定できないものの価値を証明することはできないからだ。
実際にポパーはアドラーに対して直接アドラー心理学の反証可能性の欠如を非難している。アドラー心理学とは、全ての主観的事象を「優越コンプレックスの克服」と言う命題に絡め取ってしまうものだ、と言う具合に。
そう言う意味で、アドラー心理学とは、正しい意味で科学では無いし、ましてや競争相手を倒す武器では無い。

そもそもアドラーは精神科医で、実際に患者の治療のメソッドとしてこの心理学を用いている。
かつての師であるフロイトが抑圧された欲求に病因を求めた、すなわち原因論を提唱したのに対して、目的論を提唱した。そのなかで、目的論から課題の分離を促し、他者の承認によらない自己受容、すなわち共同体に対する貢献感、という形で病的精神状態に対する治療を試みた。

この場合、世界は患者にとって過酷な環境として認識されているであろうが、実際には積極的な攻撃を仕掛けているわけではない。
すなわち、自己に対して実際には平和である世界、これに対する恐怖が解消されれば治療としては成り立つのである。
この理論は、治療学である。
治療学である限り、患者を治せればそれでいいのだ。
何が効いているのかわからない漢方のような。

この観点からは、アドラー心理学が攻撃的な社会、例えば誰かが積極的に害をなしてくるような状況、これに答えを持たない、という批判は意地が悪いといえよう。
この心理学は、平穏な環境に自己要因で適応できない患者に対する福音であって、排他競合の世界を戦い抜くためのライフハックではないからだ。
自分を動かすための救いであり、他者を打ち負かす武器ではない。
したがって、われわれは強者の立場でアドラー心理学を武器として用いるべきではない。

・アドラー心理学を武器として用いる間違い

1.時に強者はアドラーを語る。
強者の語るアドラーとは以下のようなものである。まず自責論から入り課題の分離により自己の行動を正当化する。
他者とのコンフリクトは他者の課題である。
最終的に他者との共存が不可能な場合、闘争によって勝利を収める覚悟がある。この考え方は他者貢献では決してないだろう。

同時に、強者はアドラー心理学を用いて、弱者を攻撃する。弱者が弱者たるのは目的論の結果であり、弱者は自分が弱者であることに優越コンプレックスを形成して自己肯定している、と。
目的論とは、自業自得論では無い。

自責論、課題の分離に加えて重要なのが、横の関係を築くこと。横の関係を築けずに人間関係に1つでも縦の関係を築いてしまうと、アドラー心理学は足元から崩れてしまう。ここは非常に大切なポイント

2.また、アドラー心理学の武器としての脆弱性を批判する論調も存在する。

この心理学は他者からの具体的な批判や攻撃に対して、なんら実行力を持たない。というのがその批判だ。

このジレンマは、企業マネジメントとしてアドラー心理学を用いようと試みた場合にさらに顕著となる。
共同体感覚を基本とする横関係の社会。褒める叱るではない感謝のネットワーク。承認によらない貢献感を重んじるポリシー。
これらは全て、マネジメントとして実践するには、関係者全員の合意を必要とする。

すなわち、「関係者の合意なく」アドラー心理学をマネジメントに取り入れることはできないのだ。

この構造は、「ティール組織」のもつジレンマに酷似している。

ティール組織は、指示系統も予算も何もない、組織の目的だけかあり、分散自立している運用を目指すものだ。アドラーの共同体感覚に酷似していると言える。そして、ティール組織の限界として、この組織づくりはトップダウンでなければ行えないことが挙げられている。組織の実力とはトップの理解力である。誰しも理解できないものを運用できないからだ。
ボトムアップのアプローチではでアドラーのいう共同体感覚に基づく組織運営はできない。従ってトップダウンアプローチが必須となるが、トップからダウン出来るような強者にアドラーは不要な概念である。
この理由から、マネジメントとしてアドラー心理学を取り入れることは原理的にできない。
戦略としての脆弱性を指摘することに意味はないのだ。

・それでも「共同体感覚」は目指すべき指針になりうる

話はやや飛躍するが、共同体感覚を共有しうる集団、とは、自発的に集まった集団であろう。外圧によって集められたのではなく、義務感で離れられないのではなく、各々が進みたいと思う道の上でたまたま距離が近くなった集団というものがそれに当たる。ベクトルとスピードが同じもの同士には、無理やり結びつけるようなエネルギーは必要がない。共通の目的のために貢献を行うことが、自分の目的そのものであり、他者貢献である。
これ以上に上質な集団というものは他に無いだろう。

抑圧的な集団の中でアイデンティティを保てない人間にとっては、共同体感覚とは、仮想的な存在であり、自己にのみ意味のある「個人的な救い」に過ぎないかもしれない。
しかし、先に述べたような、実体のある共同体は、実効性のあるエネルギーになりうる。共同体への貢献が、自分を前に進めるエネルギーに変換されるのだ。この感覚は実際に集団に加わらなければ実感できないかもしれない。でも、確かに存在している。