空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか?(日記)

医は仁術論

フランケン
フランケン
人間は罪深き生き物だ
博士
博士
その心は?



「医は仁術」論

金と時間が欲しい、と言うと世間は眉をひそめる。「医は仁術」とか患者が言う始末だ。ちょっと考えて欲しい、皆保険制度で頑張っているのは日本だけだ。アメリカなどは民間保険のランクが、受けられるサービスのすべてを決める。中国は持っている現金。自分が払った金の対価としてのサービスしか受けられない。金がないので抗がん剤なんかは買えず、バタバタ死んでる。でもそれはしょうがない、とみんな思っている。医療は金で買わなければならない。これが世界の常識だ。日本もかつてはそうだった。

国は「医は仁術」だと考えているのか?

現在の皆保険制度は高度成長期にあって無尽蔵に福祉予算が組める時代の名残だ。みんなで富を作って、全員に分配する。実に美しい理想だが、根底にあるのは共産主義だった。ソビエトが与えてくれた教訓は、財政基盤の源となる「富の生産」は共産主義的には維持できない、だった。だから共産主義的福祉思想は、資本主義経済が富を生産してくれなければ実現しないと考えられた。財源が拡大期にあった高度成長期は皆保険もうまくいった。だが、国はもうこの形を維持できないと感じている。だから、医者がせっせと働いて国民をせっせと治療して、バンバン医療費を消費されるのは困る。国民の健康を維持するのが皆保険制度の建前。だけど国民を皆一様に健康にする予算はもうない。とりあえず当面は医者に働いてもらおう、なるべく金をかけないで。サービス残業をバンバンやってもらおうというものに変わっていった。
医者がカネカネいうのは多少目を瞑る。やってもらっちゃ困るのは、そのカネを医療財源から持っていくのと、医者が労働力を医療以外に割くこと。後者はわかりずらいが、日本の医療はサービス残業と無休医という労働力で成り立っている。労働力は買うべき商品であり賃金として負債の部に載るべきものだが、現状では資産の部に計上されているのだ。だから、法定労働時間ですっぱり医業を区切って自分の時間なんか持たれたらたまらない。国は「医は仁術」とは考えていない。財源確保と国民に与えるべきサービスの質、そしてそれを実践する医者の財源消費行動のコントロール、これらのバランスから皆保険制度を維持する最適解を模索しているにすぎない。国にとって国家予算の大きな割合を占める社会福祉は仁術どころか究極の算術に支えられている。「医は仁術」像は国にとって都合が良い。この医師像は予算を消費せずサービスを維持提供するものだ。予算という具体的なエネルギーを精神論で捻出してくれる素敵な思想だ。否定する理由はどこにもない。

あなたに仁術を強いる構造の正体

予算と支出が根本的にバランスしていないという収支の歪みは、予算レベルから、診療報酬改定という形で病院に押し付けられる。病院は勤務医に押し付ける。勤務医は押し付けるべき下部構造を持っていない。すなわち医療社会構造の最底辺なのだ。代替可能な労働時間を賃金と交換するだけの肉体労働者である。だから、こんなに働いているのに給料が少ない、という主張は無意味だ。労働力の買い手は国で、買い手が商品を「この値段じゃなきゃ買えない」と言っているのだ。個人が自分の値段を釣り上げるのは勝手だでが、それが売れるのは商品に価値があるときだけだ。不幸なことに労働力を安売りして市場にばらまく層がいる。国は当然そちらを買う。このダンピングを仕掛けているのは能力の低い医師で、そこには研修医も含まれる。敵は我々自身である。
一年目の研修医が、オレは医者なんだから実務はまだ全然できないけど20年目の先輩と同じ待遇をしろ、という気になるだろうか?普通ならない。そこで研修医とベテラン医師、経営者の3者に共通認識が生まれる。「研修医は技能がない半端な技術者なのだから、技能訓練を与えられる代わりに不利益を享受すべき」である。これは事実を正確に捉えている。オレは免許を持っているんだ!と憤ってみても始まらない。路上に出れば大学生からおばあちゃんまで1人残らず運転免許を持っている。威張れる相手は中学生くらいのものだ。
そこで経営者は3つのルールを課す。
1.年次昇給を約束するので現状の待遇を受け入れろ。
2.時間外勤務を経営者の求める量行え。
3.時間外手当の算定については経営者のルールを受け入れろ。
である。
2.3.などは明らかに違法な取り決めだが、これを不文律的に運用させる役割の人間がいる。それは先輩・上司だ。勤務医は医療構造の最底辺だと述べたが、最底辺にも若干の階層が存在している。彼らが若い研修医の奴隷労働の具体的運用を牛耳っている。経営陣と上司の間にはシステム的な接続がなく、研修医の奴隷労働の実態は経営陣には把握できないようになっている。これは、「把握することができない」という意味ではなく、「システム的に把握できてしまうと管理責任が大きいのであえて把握しない」という意味だ。あなたの時間外勤務申請は、あなたの部長が握りつぶしている。握りつぶすためのシステムがキチンと整っている。からくりの1つは、「医師に限り病院滞在時間と勤務時間は同義ではない」という運用が認められていることだ。タイムカードを導入している病院などがあるかもしれないが、このルールがあるおかげで医師が96時間連続勤務をしても「大部分が待機時間であり労働時間は4日分の日勤と合算8時間の時間外労働」という解釈が可能になり、あなたの部長はあなたが提出した60時間の超勤申請を握りつぶして「8時間」と記入する。ちなみに、科で認められている最大超勤時間というものは一人当たり決まっており、間違って超過申請すると経営会議で吊し上げられるシステムになっている。ここでも医は算術なのである。帳尻が合えば医師が提供する医療の実態などはどうでもいい、と経営者は本気で考えている。訴訟さえ起こされなければ好きにやれ、と考えている。どういう感想を持っても構わないがこれは単純に事実であり、事実と実感できないのならばあなたの世界感が狭いだけにすぎない。


自身の悪性は肯定しうる

医は仁術、とは努力目標である。努力目標とは、現状で医が仁術では無いというジェネラルコンセンサスがあるからこそ掲げられる。そして掲げられる目標とは理想的でなければ意味がない。
善人であれ!とは誰もが納得する努力目標ではあるが、お前は善人ではない!と相手を罵る行為には正当性がない。善人などどこにもいないのだ。だからこそ、悪人を定義し悪行を罰するルールが存在する。法だ。法は道徳の上に位置する。悪い事とは、あなたの在りようを非難する人物などではなく、法が決めてくれる。あなたは自分の善性が完全ではないことについてことさら思い悩む必要はない。あなたは自身の悪性を法律の範囲で肯定して良い。

聴くべき意見とは?

私の中で「聴くべき意見」と「無視するべき意見」の基準を記す。
それは「コストがバランスしている根拠を示しているかどうか」だ。
その主張で示す運用像が、技術背景、財源と人的資源の確保、収益を視野に入れた恒久的運用の可能性を説明できるかどうかである。
これができない主張というものは考慮に値しない。自分にとって都合が良い運用を要求しているにすぎず、運用が破綻した時に責任をとるつもりはない。単純なポジショントークである。自らコストを支払うつもりは毛頭ない。
医は忍術を実践して過労死した研修医に対してなんら感想を持つことはないし、研修医が死滅して自分がのぞむ医療が受けられなくなったらそれを供給できない国を責めるだけだ。

キューバの話をしよう。

キューバの臨床医は幸せだ、と言われる。よくキューバの医療システムは成功しているという論調で語られるが、どうなっているのだろうか。私見だが、キューバの成功は国民に、医療とは医療者を含めて自分たちの財産であり、自分たちが負担を分担して維持しなければならない、という「コスト意識を植え付ける」ことに成功したことが大きい。
キューバ医療に患者が募らせる幻想を打ち砕くかもしれないが、キューバ医療を運用する医師を守っている要素は2つある。医者である限り誰もが同じ給料で一般人とそう変わらない低賃金であること、訴訟が少ないこと、である。前者は医師の労働単価が低く、国防や警察と同じ運用で医師を配置運用することができるため、医師が過重労働を行わなくても良いからだ。収入面の優位性がないため医師をやるモチベーションも患者への医療奉仕という性善説的な側面が色濃くなる。後者の訴訟については国民の意識というよりも、自分の持ち物を訴えても得るものがないという利害による。もともと無料のサービスに文句をつけても、具体的な損失が自身の健康被害という曖昧なものでは保証を要求しようがない。しかも、医療サービスの持ち主は自分である。このように分析してしまうと夢も希望もないが、人間は人間なのだ。誰もが環境に適応しているに過ぎない。キューバ人も日本に生まれれば医師に奴隷労働を要求し、自身が享受できるサービスを最大化しようとするだろう。
かくしてキューバの医師は少ない労働力を供給して少ない報酬を得、訴訟に怯えることなく、患者を救いたいという善性に基づくモチベーションを維持することが可能になる。つまるところ「医は仁術」を実践するには医師のモチベーションだけではコストを賄えず、社会資本にも負担を要求するのだ。「医は仁術」をぶつけてくる人にはこう要求するといい。「その社会的コストをどうやって捻出するの?」と。このコストをバランスさせる方法が極めて難しいことを知っている人はそもそも迂闊なことを言わないものだ。
ちなみに現在のキューバ医療は経済制裁のあおりを受け維持困難な局面に直面している。財源が枯渇した社会主義国の医療がどうなるかは、ソビエトが示した通りだ。



我々は本当に「医は仁術」被害者なのか?

「医は仁術」の行く末は1888年にオスカー・ワイルドが「幸福な王子」の中で予言してくれた。
「町の中心部に高く聳え立つ自我を持った王子像が、あちこちを飛び回って様々な話をしてくれるツバメと共に、苦労や悲しみの中にある人々のために博愛の心で自分の持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという自己犠牲の物語。最後は、宝石もなくなり金箔の剥がれたみすぼらしい姿になった王子と、南に渡っていく時期を逃して寒さに凍え死んだツバメが残る。(ウィキペディアより抜粋)」
この運命を若い医師たちは察知している。そして、そうではないよ、と言いくるめる人たちはツバメから宝石をもらいたがっている。あなたの上司はあなたに宝石を運ばせて、自分は運ばないだろう。町の人々はツバメが持ってくる宝石をあてにしている。ツバメの亡骸を見てその人たちは何を思うのか。「次のツバメを探そう」だ。みすぼらしい王子を見て何を思うのか。「次の王子像を建てろと領主に文句を言う」だ。彼らはツバメを介して富を分配するシステムをバランスさせる方法論を持っていない。いかに他人より多くの分配を勝ち取るかにしか興味がないのだ。

幸いなことにこの寓話はツバメと王子に他の解決を示している。

ツバメは渡りの季節に南に渡ればよかったのだ。
ただしそれはツバメにとっても簡単な決断ではないのだろう。南に渡る勇気は、このまま凍え死ぬ未来よりも恐ろしいものだったのかもしれない。両方の恐怖から目を背けるために「自分は人のために尽くしているのだからいいのだ」と言い聞かせ続けたのかもしれない。アドラー的に解釈するのならば、ツバメは南に渡りたくないという目的を達成しただけの話かもしれない。
どちらでも良い。
凍え死ぬツバメが最後に感じたものが、奉仕への満足なのか、後悔なのか、それはツバメにしかわからない。