空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか?(日記)

サンクコストとはいったい何だろう?

サンクコストという呪文をご存知だろうか。

sunk cost:埋没した,コスト。埋没費用と訳す。
コンコルド効果とともに引用される経済用語だ。
「金銭的・精神的・時間的投資をつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資がやめられない状態を指す。超音速旅客機コンコルドの商業的失敗を由来とする。」(Wikipediaより)

曰く、サンクコストは回収できない。
曰く、ゼロベースで考え直せ。
曰く、もったいないはサンクコスト。

何でしょう?詐欺やペテンが醸し出すハーモニーをこよなく愛する僕のアンテナにビンビン来る。
サンクコストという概念は、そんなに素晴らしい発明なのだろうか?

そう思って自己啓発やビジネス情報サイトに上げられているサンクコストの例を片っ端から調べてみた。その結果、ほとんどの情報はサンクコストと経済合理を整合させていない。納得できる記載は、元の由来である「コンコルド効果」以外には見当たらないと言って良い位だ。あなたも調べてみてほしい。グーグルで「サンクコスト」と検索するだけでよい。10分ほどでおなか一杯になれるはずだ。「あなたの選択は間違っている。サンクコストに惑わされた結果だ」という結論に導くために、意味不明な説明の博覧会状態だ。まず経済合理を説明するために結果論を持ち込むという誤りが最も多く、次に多いのが投資による期待値が無視されているものである。一番厄介なものは、ゼロベース思考と組み合わせて無限のコストを許容しているものだ。とにかく勉強すればするほどわからなくなる。

マーケティングの情報サイトを謳う記事から3つ事例をピックアップしてみよう。

結果論とサンクコスト

事例1.FXコンサルタントサービス公式ブログ
100万の車を購入。すぐに調子が悪くなり、30万で修理。しかし、すぐにまた故障し追加50万を要求され、計80万払った。さらにまたすぐに調子が悪くなりもう30万円修理代を要求されたというモデル。
結局110万払うのでは、新車に買い替えたほうがよかったという状況だそうだ。
実に不幸な話である。

このサイトでは、サンクコストを以下のように解説する。
「30万円を支払ったからもったいないと思うのではなく、追加で50万円支払えばもう1台車を購入できる金額になってしまいますから、30万円支払ったことをあきらめて次の車を買ったほうが合理的でそのほうが得なのです。」(原文まま)

ちょっと待て。ホントかそれ?

最初の修理費30万を払った後の状況は、「持っているものは壊れた車、サンクコストは100+30万」。

これに対する選択肢は二つ。
1.50万の追加投資を行って、車を動くようにする。
2.100万の追加投資を行って、新車を手に入れる。
どちらを選択するのか、というのが正しい理解だ。サンクコストは現時点で130万である。これは変わらない。

このサイトには続きがある。
1を選択し、さらに修理代を30万要求されるというものだ。
「合計の修理代は110万円になってしまいます。それでは、100万円と言う車の購入金額よりも高くなってしまいます。
最初に30万円の修理代を払った後で、もう50万円の修理代がかかってしまう場面で勇気を出し、その30万円を割り切ってしまうことが経済学においてサンク・コスト効果的に、お得ですし損をしない決断となるのです。
一見、最初の修理代は30万円損してしまったように感じるかもしれません。しかし、その30万円を防ぐことはできなかったはずです。その30万円はどうしようもないコスト、つまりサンク・コストなのです。」(原文まま)

途中に結果論が混ざっている。最初の30万を払った時点で、総額110万の修理代を予見することはできない。

50万をはらってしまったこの状況では、「持っているのは壊れた車、サンクコストは180万」。

これに対する選択肢は二つ。
1.30万の追加投資を行って、総額210万の出費で車を動くようにする。
2.100万の追加投資を行って、総額280万の出費で新車を手に入れる。

この状況では、最初の30万の修理を払った段階には戻れない。総額280万よりも210万の方が経済的であるという選択を否定する根拠は全くない。この人は選択を誤ったのではない。単純に不幸であったのだ。

経済合理的な選択が裏目に出たことについて、結果論を持ち出すことに意味はない。

期待値とサンクコスト

サンクコストを論じるべき局面とは、現状維持バイアスが経済合理に反する時だけだ。期待値が明確な対象についてはサンクコストを論じる意味が全くない。期待値を無視すると、全ての投資は無意味な浪費とされてしまう。以下の例を見てみよう。

事例2.顧客心理をつかむ心理学講座、マーケターブログ
「ガチャで10000円突っ込んでも欲しいアイテムが出ない。
ここでやめたら10000円が無駄になる、と、もう10000円つぎ込む」(原文まま)
これは説得力がある。ように思う。
10000円が現時点でサンクコストであることは間違いない。

追加の10000円をつぎ込むことに経済合理性があるかどうか、ということがサンクコストを論じる肝だ。20000円の投資に対して当選の期待値が1に近いという前提があればこの行為は全く問題ない。当選確率が変動せず、投資額と当選閾値が直線的に予想されるモデルでは、それこそ途中で止める意味がない。
自販機でジュースを買おうとしている人を引き止めよう。100円入れたのにジュースが出てこない。100円はサンクコストだ、帰ってこない。手に持っている20円をつぎ込むのはやめるんだ!
ジュース代は120円だ。期待値が確約されるモデルでは、途中経過にサンクコストを持ち込むのは馬鹿げている。

この事例における主張とは「そもそもガチャは絶対出ないからやってはいけない」というものであって、サンクコストとは関係ない。

若干脱線するが、確固たる信念でライバルが全員死ぬまでガチャを回し続けた伝説として「日銀砲、ハイエナファンド」を検索してみてほしい。勝ち目があるならガチャ万歳である。

ゼロベース思考とサンクコスト

ゼロベース思考とのコンボは僕の理解を超える。どの書籍を調べても、次に紹介される事例は正しいと紹介されているのだ。なぜこの理屈が経済合理にかなっているのか、僕は本気でわからない。以下のようなものだ。

事例3.マーケティングオートメーションサービス:企業公式ブログ
「もともと10000円なら損はない、と思っている試合のチケットを7000円で買った。
当日、チケットを家においてきてしまった。当日券は7000円だった。」
「この時点であなたが試合を観戦するためのコストは7,000円であり、あなたがサッカー観戦に支払っても良いという金額、つまりサッカー観戦で得られる便益の1万円は当日券の購入金額を上回っています。したがって、スタジアムで当日券を買うべき、という判断になるはずです。」(原文まま)

これについては、グレゴリー・マンキューが「マンキュー経済学」の中で映画のチケットを持ち出し解説している。最初のチケット代はサンクコストなので、無くなったチケット代と新しいチケット代は合算してはいけないのだそうだ。この場合試合に14000円の価値があるかどうかと考えるのは間違いなんだそうだ…

そんなわけあるか!
7000円で当日券を買ったマンキュー先生のポケットから、そのチケットを僕がスってしまおう。そうすればマンキュー先生にとって14000円はサンクコストだ。帰ってこない。かくしてマンキュー先生は永久に当日券を買い続けるのだ。僕は永遠にスり続けよう、彼が降参するまで。

サンクコストは7000円だ。これは回収できない。試合を見ない選択をしたからと言って7000円は帰ってこない。サンクコストの解釈としてここまでは同意できる。しかし、サンクコストは無くなるわけではない。ゼロベースで「10000円相当のチケットだから、7000円で買いなおしてよい」とするのはやはり経済合理にもとる。
新しく当日券を購入すると、チケット購入コストは14000円であり、サッカー観戦で得られる効用の1万円を上回る。したがってこの場合、経済合理的に正しい判断とは「14000円払ってまで、10000円の価値しか無い試合を見ない」になるはずだ。(ここを明確に否定してくれる先生、誰か教えて!この持論の間違いをどうしても理解できない。。そして否定してくれた先生のポケットから何かを失敬した後で、もう一度意見を聞かせてくれ。)

ともあれ、経済合理に従って試合を見ずにとっとと帰ろう。。。ホントに?

効用で経済を語る危うさ

この事例では、また別の経済合理性も導くことができる。
「便益」という言葉が出てきているが、主観的満足度の数値化、という意味では「効用」と表現するのが一般的である。この事例ではチケットの効用を10000円と設定している。

さて。
試合をあきらめた場合には「試合を楽しむことはできず(0円相当)、7000円損した」という結果が残る。収支は-7000円。
当日券を買った場合には「試合を楽しんだ(10000円相当)、14000円損した(支払った)」という結果で、収支は-4000円。

おや?それでは当日券を買った方がやはり得なのでは?

そもそもの試合の効用が10000円相当というのは何なのか。チケットが10000円ならば何が起こるのか。
「試合を楽しんだ(10000円相当)、10000円支払った」という結果で、収支は0円。
おいおい。それはおかしいだろう。
「試合を見なかった(0円)、1円も支払ってない」の赤の他人と収支0円で同じなのか?

このモデルで「試合を見た」という効用は10000円とバランスして消えてなくなるわけではない。効用を超えるコスト、というものは後悔をもたらす。「こんな試合に10000円以上払う価値は無かった、損した気分だ」というラインが10000円であるならば、そもそもこのチケットに10000円は出さない。すなわち、効用の数値化にエラーがあることがわかる。

このパラドックスは個人的な満足度と金銭というパラメータを等価交換で論じることから生じる根源的矛盾だろう。「効用は伸び縮み」する。人間は「10000円の価値がある」と思っているチケットを手に持っている時には、それを10000円では手放さない。逆にまったく同じチケットであっても、それを持っていない場合には10000円では買わない(この実験は「予想通りに不合理」ダン・アリエリーに詳しい紹介がある。必読。長いけど。)。だから「効用」に金銭的価値を付加してコストバランスを論じるのは無意味なのだ。

そもそもすべての効用を数値化できるのならば、
「Hey, いくら払ったら今すぐ死んでくれる?」
この質問に即答できるはずだ。
できようはずがない。

もったいないは正義

個人的な選択においては、自分が感じる「もったいない」を大事にするべきだ。チケットの件に戻れば、試合を本当に見たければ当日券を買えばいい。ダフ屋から20000円で買う価値はさすがにないと感じれば買わなければいいだけだ。いままで例示したように、サンクコストが説明する「もったいない、こそもったいない」理論はほとんどの場合正しくない。しかもサンクコストは回収できない、ときた。実際問題として、サンクコスト論争が生じている局面とは「損切り」判断を迫られている状況であり、どうせ負け試合だ。元から得られるものなんて何もない。人間の直感的な「もったいない」はだいたい正しい。そしてそれは反復学習によって洗練することができる。
「直感とは、気の遠くなるような反復経験の果てに生じる合理」なのだ。

そして、生じたサンクコストとの最も実践的な付き合い方は、認知バイアスを用いてサンクコストを肯定してしまうことだ。過去の行いは経験のためのコストすなわち勉強代と考えよう。金銭的なものはもちろん、人間関係、仕事の出来栄えについても、これだけのコストを支払ってノウハウを積んだと自分を信じ込ませよう。コツは「もう一度やるなら、どうやってノウハウ獲得コストを下げるか?」を考えることだ。このフィードバック意識が将来のサンクコストを抑制する。僕は単純なので、自分の生死に関わるような大失敗すらも「一病息災ってやつだな」と病気そのものを有意義な経験にすり替えることに成功している。

ただし、自分が関係している金銭的責任のあるプロジェクトに対しては徹底的にコスト意識を持つべきだ。サンクコストは正確に認識しなければならない。そしてサンクコストを計上した上で総合収支においてベストの選択を適宜提案していく必要がある。数々のプロジェクトに参加してきたが、上手くいってない局面でサンクコストを「無視して」新しくゼロベースで予算組みをしてくれるようなスポンサーなど1社たりとも見たことがない。本当にゼロベースでやり直すとすれば、真っ先にやらなければならないのは巨大なサンクコストを綺麗さっぱり忘れようとしているアホをプロジェクトから排除することだ。

まさかの着地点

一見コンコルド効果の権化に思えるような現状維持バイアスにも、れっきとした合理的判断が働いている場合が多い。例えば社会的使命を終えた任意団体などがこれにあたる。立上げの目的となった利益はすでに回収しており、継続によって大きな利益が見込めなくなった研究会などはこの代表格といえる。運営している本人たちが「今この研究会が存在しなかったと仮定して、様々な障害を乗り越えて新しく研究会を立ち上げるか?」という問いにYesで即答できない研究会はすべてこれにあたる。サンクコスト教の教義に従い、即刻解散すべきという話になってしまう。実際、傍から見て「無くても良いんじゃないか」という研究会は山ほどあるだろう。

しかし、これらの研究会はサンクコストバイアス上では継続の経済合理を説明できないにも関わらず、無くなることは無い。

理由は二通りある。まず、これらの団体はたいてい抹消コストが継続コストを上回る。将来にわたってどれほどの負債を積み上げようとも、今やめるためのコストを短期的に捻出できないという図式だ。全員が辞めたがっている研究会で、あなたが勇気を出して「私の責任でこの会を解散する」という活動を行えるだろうか?このような局面では、総体としての価値は破綻しているにも関わらず、それを構成する個人の中での経済合理は成立している。個人的には続ける方が得なのだ。
また、総体としての研究会が本来の目的であるところの「会員に利益を享受」できなくなっているにも拘らず、継続の決定権を握る役員が「何らかの利益を享受」できている場合も経済合理は成立する。一般会員は継続コストを負担するが研究会からは利益を回収できない。そんな研究会からは脱会すればよいのだが、たいていの場合は医局などへの税金という形で脱会を許されない。継続コストはすでに賄われているため、利益を回収できる階層にとっては継続にあたり確実な合理が存在する。

このようなサンクコストの塊のような組織は世の中に山ほどある。僕は個人的にこのような組織を「抜け殻案件」と呼んでいる。もちろん造語だ。
あなたの病院内を見渡しても山ほどあろう。役目を終えた委員会、不明確な根拠で立ち上げてしまった部署、流行りで導入してしまった機材。これらの抜け殻案件はすでに成果を期待されていないにもかかわらず、維持費が投下され続けている。具体的には金と人だ。この資源は掌握すれば運用することができる。我こそはと思う人は挑戦してみよう。予算を増やすことは難しいが、人的資源は確実に活用可能だ。抜け殻案件に配置されている人間は、1人の例外もなくこの案件に対するモチベーションを失っている。僕のモットーであるが、人とはそれだけで財産である。そして人は価値を認められることでのみ行動する。抜け殻案件は、モチベーションをこそ求めているのだ。「価値を与えられるのであれば、機能したい」という組織欲求を有しており、コンコルド効果によるサンクコストを積み上げながら、あなたによって活躍の場を与えられる機会を待っている。

垂れ流されているサンクコストは、これからあなたが使うことのできる将来の財産に他ならない。
ありがたく拾え。

Thank for the “Sunk cost”