空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか?(日記)

コロナがこじ開けたパンドラの箱

フランケン
フランケン
ひさしぶりのポエム

「人間は、他人に対して心からの悪意をぶつけることができる。」
この文章に対して、どのような感想を持つだろう。
「何を今更」
そう思うだろうか。
実は私はそうだ。
人の善意を信じないほどスレてはいないが、
人の悪意を否定するほど若くもない。
この文章は医療者が読むことを半ば前提として書いている。
であるからして、多かれ少なかれ似たような反応であろうと予想する。
医療者にとって当たり前のこの諦観は、実は極めて異常だ。
世界は、これを無条件に肯定するほど殺伐としたものではない。
そう認識されていた。
少なくともコロナ禍の前までは。

コロナの蔓延により、死や生命の危機、健康不安などの潜在不安はあらゆる人間にとって身近なものになった。
「自分を含めて人間は他人に心からの悪意をぶつけることができる。」
このような状況にならなければ、多くの人間は自分の中にそういう自分がいることを気づかずに済んだのかもしれない。
医療者は常に患者の本音と向き合ってきた。「健康被害」は人間を素直にする。
感謝もするし、攻撃もする。感情的にもなる。罵詈雑言を叩きつける。
これは人間の機能であり、止められない。
「生命」「健康」がなにかの天秤に乗った時に、理性的でいられる人というのはそう多くはない。
医療スタッフは、日常的にこれらの罵詈雑言を毎日毎日不特定多数の人間に、目を併せ5cmの距離で浴びせられてきた。それがスタンダードだ。
程度と頻度が多少違うだけで、医療というのは昔からそういう場所だった。
「もう、やってられない」
「もう、この人に何かしたいとは思わない」
「もう、これ以上、誰かのために何かをしたいとは思わない」
この感情は、珍しい事でもなんでもなく、医療に携わる限りは根源的にゼロにならないことは最初からわかっている。

「この感情は今まで無かった。
何かをきっかけに、この感情が生まれた。
だからこの仕事はもうできない。」
こういう単純なメカニズムではない。
最初からこの感情は自分の中に一定の割合で存在し、その比率が時間と共に変わるだけなのだ。
最終的に域値を超えたら、「もう、これ以上は」と言って離脱する。
そういうものなのだ。

「医は仁術」
これを口にする医者に、実際に会ったことがない。
他人が発するこの文言が「呪い」であることは医者にとっては説明不要な事実で有り、取り立てて医者の中で議論されることは無い。
だから、あえて言葉にするが、「医は仁術」ではない。
現役世代に「仁術である」という認識で医者をやっている能天気はいないだろう。
専門職であることは間違い無いが、少なくとも聖職では無い。そう認識している。
そういうものなのだ。
そうやって折り合いをつけて来た。
仮に「「医は仁術」が医師の必要な資質である」とするのであれば、この国は医療サービスの質と量を絶対に維持できない。これは絶対だ。
医は仁術ではない。
仁術という押し付けの職業倫理により犠牲を捻出し、医療財源の中に医療費用と人件費をねじ込む。そうすることで医療費というバランスシートを健全化する。
この国に於いては「医は究極の算術」であった。

「仁術」の背景には、「医」を行うエネルギーは、自己の内から無制限に湧いて然るべき、と言う呪いがかけられている。
このエネルギーを外部から取り入れ変換しなければならない事自体が、不純である。そう言わんばかりの怨嗟が込められている。
しかし、事実として、医療者は外部からのエネルギーがなければ「医」の実践を継続できない。この事実は一般に受け入れられている。
このエネルギーを求める姿勢にも明確な検閲があり、純ならざるエネルギー源を要求することは、倫理的に許容されない。
そういった背景のもと、「内的にエネルギーを湧出させることのできない純ならざる医師」に許されるスタンスとは、以下の様な発言になる。
「患者さんのありがとうがエネルギーになる」

これは何か。
医が患者の満足のために行われるのであれば、医に伴い感謝が発生するのは矛盾がない。そのフィードバックループをエネルギーに変換するのは許す。
この言葉はこういった成り立ちをしている。だから許容されうる。
もちろんこれはこれで美しいし、間違ってはいない。
ある程度はこれで己を駆動しうる。
ただし、自分が医療に携わるモチベーション、エネルギーを「ありがとう」という「プラスのフィードバック」に依存するのは、実は危険であると言うことに気がついておく必要がある。
この話は、経験年数が20年を超えた人間に言う必要はない。
まだ若い10年そこそこで、裁量権とともにリスクが増大しつつある中間キャリアならば、是非とも一度しっかりと考えておいて欲しいのだ。

まず、フィードバックループに永続的なエネルギーを求めるのは、熱力学の第一法則戻る。まずここから違和感がある。
そして何よりも、「ありがとう」をモチベーションにするというのは、「患者の心の動き」をモチベーションにするという意味だ。心の動きにはプラスもマイナスもある。都合よくゼロでは止まらないのだ。
マイナス方向の心の動きは、モチベーションの根幹を破壊する。
残念なことに、マイナスの心の動きは、同量のプラスで相殺されない。
そして、長年医療に携わっていると、心の動きの表出は、実はマイナスのものの方が強く多いことに気がつくのだ。

このパラダイムシフトは主観的には10年から15年の間くらいに訪れる。
ちょうど自身の責任と、行為の難易度、リスクが飛躍的に増大を始める年代がここに当たる。
プラスの燃料、「ありがとう」を求めれば求めるほど、罵詈雑言を書き集め、モチベーションの根幹が破壊されていく。
「ありがとう」だけを大事にポケットにしまい、罵詈雑言という雨には濡れることがない、そんな都合の良いスタンスは取れないのだ。
これまでのスタンスではモチベーションを維持どころか捻出すらできない。そういう瞬間がいつかくる。永久機関の破綻である。
そして最終的には、プラスであれマイナスであれ、患者の気持ちの動きそのものをエネルギーとして利用することはできないと結論づけるのだ。
結果的に、モチベーションは別の要素から抽出し、感情の動きをモチベーションとは別の軸に置くことで自己を守る様になる。
これが行き着くところまで行くと、もはや患者の負の感情は己を傷つけず、正の感情も同様に己を駆動することがない。

なんとも絶望的な話だが、本当だろうか?
これが本当ならば、年老いてなお医者を続けているものは、このジレンマをなにかの形で脱した、ないしは最初から持っていない人間だけで構成されているのか?
このジレンマと最初から無縁であるという医師も存在する。
前提に立ち返ろう。
このジレンマは、「患者個人を人格のある1人の人間として捉え、その人間の感情の動きに干渉を受ける」という構造に起因する。
すなわち、医療を行う対象が疾患そのもので有り、主観的には患者の人格と切り離されている場合には、患者個人の感情の動きがプラスであれマイナスであれ、影響されることはない。
かなり不謹慎な物言いになるであろうが、初めからそのようなスタンスの医師、あるいはそのようなスタンスに変化することで自分の有りように折り合いをつけてしまっている医療者は、確実に存在している。

一つの典型は生粋のアカデミアである。
それもかなり歪んだ形のアカデミアであり、これが結構な数存在している。かつ、医療の発展に最も寄与している。
彼らは「患者」という単位をおよそ主観的には認識していない。見ているのは「疾患」であり、疾患を持っている何かが目の前に現れたと認識している。医師としての彼らの使命は、疾患を治療する、ないしは、治療のための研究を行い、未来の疾患を持つ患者群に還元することである。
患者を治しているのではない、患者の中にある疾患を治しているのである。結果、健康被害の減少が患者にもたらされれば、副次的に喜ばしいことだ、という順番で考える。うまくいけば喜ばしい、患者の感情がプラスに動くことも喜ばしい。うまくいかなければ残念である。患者の感情がマイナスに動くことも残念である。
ただし、この感情の動きは結果論であり、そこに責任の所在も受け止めも生じない。
ちょうど、的(まと)に向かって投げた球を、的に当たった後にわざわざ目で追わないことと同じ構造をしている。的に当てる。これがその医師の主観的な使命であり、この使命に全力を尽くし、誠実ですらある。ただし、的に当たった、外れた、ここから先の球の行方に自身の心を動かされることはない。
ここに内部矛盾は生じていない。

このタイプの人間は、こう考えている。「的に当たった後、球が箱に収まる」これを要求されるのであれば、後者については責任の外であり、この条件を満たすという約束は初めからしない。それは医療の範疇ではない。となる。また、「的に当たっても外れても、最終的に球が箱に収まるのが条件だ」ということであれば、的に玉を投げる必要はない。直接箱を狙うべきだ。「さて、それは果たして医療の範疇だろうか?宗教の役目ではないのか?いずれにせよ、自分の請け負うべき案件ではない」そう考える。
実に理に叶っている。

ちなみに、この理屈を「医は仁術」でひっくり返すことはできない。
彼らは、「ならば、この国の保険医療とはなんぞや」を熟知しているのだ。
この国の保険医療においては、医療とは、疾患を持つ個人ではなく、「国民の健康」にフォーカスされている。
保険医療を行うに当たり、医師の役目とは、国民全体の健康の維持増進に資することであり、目の前の患者を満足させることではない。標準治療を遅滞なく行い、想定された合併症を許容し、想定された効果を全体として発揮する。その個々の治療経験を学問に還元し、保険医療の質を向上させ、未来の国民が受けることのできる医療サービスの質を改善する。
つまり、このスタンスにある医師は目の前の患者ではなく、患者の中にある「疾患」に焦点を置き、「現在及び未来の国民の健康」というものに対して責任を負っている。
そうなってしまうと、目の前の患者そのものは、単なる母集団の一部に過ぎず、予測通りの確率で喜んだり怒ったりする存在になる。

もう一つのスタンスは、患者を保険点数に還元してしまうものである。目の前に存在する患者は、幸いにも病院に保険点数を発生させてくれるスイッチに過ぎず、どのような感情をぶつけられようとも動じず、ひたすら「毎度あり」と言ってみせるというものだ。医療行為は正しく行う。しかし、そのモチベーションは金銭から補充する。これはもはや医者ですらない。医者ではないが、標準治療を適応を守り施行する限りにおいて、一定の治療効果を患者にもたらし、もって国民の健康の維持に役してしまう。つまり、どのような下衆なありようであっても、医療サービスとして十全に機能するというのが、この国の保険医療システムの凄まじいまでの完成度の高さを現している。

最初に挙げた「マイナスの心の動きにモチベーションを削られる医師」のスタンスと、後者のスタンスとの違いとは、いったい何なのだろうか。
答えは、目的語の置き換えである。
患者という目的語を、疾患などその他のものに置き換える。
それにより、患者の感情の動きというものを、主たる目的以外の品詞の、さらに従属語に落とし込むことで、自分のモチベーションとは別の軸に据えてしまうのである。
ナチュラルボーンでこのような状況俯瞰をしている医師は、初めから先に述べるような葛藤を持たない。
そのような特性を残念なことに持たない、幸いなことに持っていない医師は、
長い年月をかけて、大なり小なりこのような書き換えを行うことによって己の閾値をあげる。「溜まり溜まった何か」に対する感受性を別の指標に置き換えていくのである。

これはとても悲しいことだが、極めて効果が高い。
そうやって医療者は攻めに対し守り、主語を捨て、目的語をすり替え、医療そのものの意味合いを斜めにずらして己を守っている。
もちろん、大部分はそんなことをしたかったわけではないにもかかわらず、である。
お分かりいただけるだろうか。
裏を返すと、
患者の「ありがとう」をエネルギーとして自分を駆動する行為というものは、極めて美しく、上質で、贅沢なありようなのだ。
これは、手に入らない理想である。
しかし、個人的にな意見にはなるが、手に入らないからと言って、
この理想をあえて私は否定しない。

医は仁術。で、「あれかし」。
我々は、直感で知っているのである。
手に届かないが、尊い志である事を。
手を伸ばす矜恃が己を医療者たらしめる根源であると。
それで十分なのだ。

「医は仁術」を強制しようとする声をあなたは聞く必要はない。
どこまでいっても医は仁術たりえないからだ。
その声は、あなたが、あなた自身に発することができれば、それで良い。
あなたの側ができる準備としては、それで十分なのだ。

マスクを出せと店員を怒鳴り散らす客。
コロナの出た家庭の家族を迫害する隣人。
トイレットペーパーを買い占める老人。

医療者はこのような行為を「人として有り得ないもの」としてわざわざ取り上げるメディアの流れを鼻白んで眺めている。
「何を今更。一般業種であれば、それは顧客扱いしなければ良いだろう。好きに排除すれば良いのだ。
文句を言いたいのであれば、せめてその顧客に対応する法的義務を課せられてから出直してくれ。」
応酬義務を課せられている医療者は、「逃げ場のある状況で顧客の悪意に右往左往する」他業種の反応を白けた目で眺めている。

でも、そうじゃない。
そうじゃない。
「お前も不幸になれ、俺の絶望はお前よりも深い」
そう言って、今まで浴びてきた呪いを、そのまま他所に浴びせ返すことは何も生まない。
生まなかった経験を我々は持っているはずだ。

医療者の心を折るもの正体が何か。
知識ではなく、国民がそれを実体験として知ったことの意味は計り知れない。
これは相互理解の可能性であろう。
「医は仁術」
これが、お互いを貶める「呪い」以外の何かに変わるためには、片方だけでは不十分であることを、医療を受ける側にも理解される可能性が示された。
これは願いであるべきものだ。
お互いが「そうあれかし」と願うときのみ、実現する類の呪文なのだ。
これは、失うものばかりが多かったコロナが残した、
パンドラの箱に残った唯一の希望である。