空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか?(日記)

アウトサイダーによる友好的侵略

高いところから失礼します

「高いところから失礼します。」
よく聞く枕詞だが、講演の冒頭でこのセリフを吐いたことが、僕は一度もない。
理由は簡単で、掴みとして最悪だからだ。

もう1つ
「過分なご紹介ありがとうございます。」
これも第一声としては大変によろしくない。

掴みは大事だ。何よりも。
聴覚情報であるにせよ、視覚情報であるにせよ、これからの時間を費やすに値するものかどうかはプレゼンテーションの最初の情報が全てを決めると言って良い。意味のないタイトルスライドに、「過分な〜」という音を載せる行為は、プレゼンターとして常軌を逸している。

いかに始まるか、どうやって終わるか、何を残すか、この3つがプレゼンテーションの全てなのだ。これを疎かにするとイベントとしては失敗する。

ご指導ご鞭撻

なぜこんな話題から入るのかというと、この2つの枕詞について面白いご指導をいただいたからだ。
曰く、先に紹介した2つの枕詞がないことは失礼に当たるのだそうだ。
「高いところから〜」は聴衆に、「過分な〜」は座長に対する礼儀にあたる。そんなことは僕も分かっている。したがって、僕のプレゼンテーションというのは、最初の2分くらいでドカンと掴みを取りに行き「これからこんな話をしますよ!面白そうでしょう?」という空気を作りに行き、簡単な自己紹介をして、座長にお礼を言って、という構成から始めるのだ。
掴みでは呼ばれた地域の名物や観光名所などをネタにしながら講演内容と地域の融合を強調し、座長との個人的な関係の披露とリスペクトを明らかにする。正直なところ、シリーズ物の調整はこの部分に一番準備時間をかけると言って良い。

しかしいただいたご指導というのは、まず最初にそれをやれというものだった。これは何を意味しているのだろう?また、この2つの枕詞はそもそもどんな意味を持つのだろうか。

演者のエクスキュース

河合隼雄の『ユング心理学と仏教』によれば、これは日本人と西洋人の持つ宗教観の違いに由来しているのだという。
「西洋では、最初になすべきことは、他と分離した自我を確立することです。このような自我が所を得た後に、他との関係をはかろうとします。これに対して、日本人はまず一体感を確立し、その一体感を基にしながら、他との分離や区別をはかります。」
日本人は壇上で何かを発言をするにあたり、自分を集団から分離するためのエクスキュースを必要とする。このエクスキュースがないと「お前ナニ偉そうに上から物言うてんねん」となる。以降の発言内容などはどうでもいい。議事録に載らない、というわけだ。西洋では自我の分離は前提なので「本来関係の無いみなさん、みなさんに関係のある話をしますよ」と逆に他との関係を構築する必要があるということなんだそうだ。

砂漠系と森林系

また、日々の生存が難しかった砂漠系の宗教と、生存コストが低い森林系の宗教との違いも大きく影響しているという。環境収容力が大きい森林では、飽和状態での平衡競争が主体だ。「環境収容力が大きい」とは単位面先あたりに複数の個体が生存してもいいよという意味で、幼弱な個体が成体まで完熟することが許される環境だ。したがって、成体になってから他の成体と競争をするという生存戦略になる。大人になってからが勝負だよ、という世界観だ。したがってアジアに見られる森林系の宗教観は、調和に基づいており、アニミズムや多神教が多くなる。
砂漠は環境収容力が低い。生物が生存するためのリソースが圧倒的に少ないのだ。この様な環境では内的自然増加率が高い生物が有利だ。内的自然増加率とは、簡単に言えば増えやすさのことで、他の個体よりも早く繁殖してシェアを独占しようという能力のことだ。森林と違い、大人になれたら勝ち、という世界観だ。多産多死のモデルであり、その様な文化では人の生命は極めて粗雑に扱われる。そして、他者との接触はリソースの競合を意味するため「増えやすく、損耗を許容し、他者を駆逐する」性質が高い種が有利となる。一神教で合理的な宗教が生き残ってきたのが西洋の砂漠系の宗教だ。これらの宗教は基本的に他者との共存を前提としていない。したがって文化圏が拡大し隣接する宗教と接触するとお互いが滅ぶまで戦争をしようとする。この反省が西洋企業の東洋思想化として表出したことは非常に興味深い。あるいはGoogleがもう少し大きくなって自他共に切り崩すことができない牙城を構築した暁には焼畑農業を辞め、和と協調を全面に押し出した穏健系企業への大転換を行うのかもしれない。

日本書紀と同調圧力

さて、森林系の宗教観に支えられた日本人である我々は、以上の理由から「以和為貴: 和を以て貴しと為す」、「必與衆宜論: かならずもろもろとともによろしくあげつらうべし」をよしとする価値観で生きてきた。これが正しい、という意味ではなくこれを正しいとせよ、という同調圧力の下で生きている。この性質は変化の乏しい環境下でコツコツと文化を育むには最適だが、同時にアウトサイダーに容易に撹乱されてしまうという脆弱性を持つ。だから日本的思想ではこのアウトサイダーの存在を脅威としてコントロールしようとするのだ。すなわち、日本的ヒエラルキーにおいては自分をプロモートするべき相手は既存権力であって、一般大衆そのものでは無い。自分を既存のレールに乗せる行為が唯一の正道であり、それ以外の方法論は邪道である。大衆の支持を得て「邪道高じて覇道を為す」は革命行為であり容認できない。冒頭で紹介した「ご指導」はつまるところ、「あなたはキャリア形成の途上にあって、あなたを引き上げるラインに載せた人間の恩恵によってそこに立っているよ。あなたの能力そのものではなく、そのラインに乗せてもらっているという感謝が今後のキャリア形成を決定するんだよ。」という意味だ。

森林の国の学会活動

この文化圏では、全ての非営利的集団的活動はヒエラルキーの確認のために行われている。
学会を例にとってみよう。学会が組織される目的は、各学会の定款に明記されている。しかし、学会を構成する人間たちはその目的を意識することは皆無であろう。学会があるから参加している。これ以外の価値観を持って学会に参加している人間はむしろ異端と言える。学会は評議員と呼ばれる議決権を持った10%程度の役員を持ち、さらにその10%程度の執行役員が学会の大枠を決定する権限を持つ。取りまとめは代表理事が行い、学会の代表を務めることになる。それ以外に学会長と呼ばれる役職を1年ごとに持ち回り、年次学会を開催する。年次学会の役割は参加者の確保と資金集めだ。したがって年次学会は参加者数、演題数で評価される。学会そのものの機能は同列の他の国内学会との利権争いと、国際学会における影響力の拡大だ。厚労省や文科省との折衝はここに含まれる。
学会で重要な役割を占める、ということはこれらの業務に従事することを意味し、必要な技能とはまさに「以和為貴」「必與衆宜論」に尽きる。ヒエラルキーを守り、自らの価値を序列に求めるメンタリティーこそが求められる世界なのである。ヒエラルキーを超越した価値観でショートカットやループを作られてはたまらない。

今どきの「若手研究者」たちには、このような既存の体質とまともに正面からぶつかっていこうとする者が後を絶たない。砂漠系の宗教観で局地的な生存競争を仕掛けようとする試みだ。このアプローチは初期こそ有効に作用するが、徐々に押し戻される。森林系のモットーは飽和状態での協調だ。ライバルが未熟なうちは戦闘力の面で砂漠系に分があるが、そのライバルが環境の助けを借りて成熟した後の堅牢性は揺るぎない。削りとろうなどと考えている間は個人が倒せる相手では無い。

友好的なアウトサイダー

オススメの戦略は「友好的なアウトサイダー」だ。

アウトサイダーは「一定水準以上の価値を持ち、我々と異なる価値観を持つ存在」である。このアウトサイダーが武器を携えて攻め込んでくるのは歓迎できない。しかし、森に迷い込んだだけ、というのであれば話は別だ。敵対の意思が無いのであれば共存できる。それこそが森林系の特性であるからだ。
森林系の若手として地道にコツコツ階段を登るのではなく、どこにも属さず価値だけを高める努力をした方がいい。ある程度になったら最も価値を与えてくれる宗教にアウトサイダーとしてアプローチする方が効率的だ。

ここで注意すべきは、あなたは徹頭徹尾アウトサイダーを貫かなければならない。なぜならば、宗旨替えをしてしまうとあなたは単純に中級信者であって、それ以降の活動は宗教上のルールに厳格に従わなければならなくなるからだ。敵対はしない、価値を共有する、お互いに制約を与えない、というルールを守る。それだけで、あなたはまた別の価値を磨いて他の宗教の別の階層へとアプローチできるだろう。戦国時代のオランダ商人のような存在が好ましい。彼らは価値を与え、受け取り、特定の国に肩入れする動機を持たなかった。火縄銃にしろ、種子島を妬みこそすれ、種子島に鉄砲を伝えたオランダ人を恨むことはないのだから。種子島に鉄砲を伝えたオランダ人が、数年の後に驚くほど進化した自動小銃をまた別の大名に売りつけたとしても、種子島はそのオランダ人を恨むことはないだろう。
あなたは独自のスキームを背景に価値を輸入するオランダ人としてこの国の様々な宗教と関係を持てば良い。アウトサイダーである限り、あなたは誰の恨みも買うことはないだろう。

いつもの結論

宗教観と個人の立ち位置、という切り口で展開してきたつもりだったが、最終的には「価値の万能性」といういつもの着地点に落ち着いてしまうのが面白い。結局は「価値」とはどのような局面にあっても最強のショートカットツールであるし、「商品」を持つ強さが生存の切り札になるということだ。
そして商品とは「持って」いれば良いのであって、必ずしも自分で「作り出す」必要はない。商品を仕入れた後に、何らかの方法で使用価値を付加できれば良い。自分の国では当たり前の商品を、それが当たり前ではない国に持って行って売る。仕入れと販売の場所を変えるだけでも使用価値は発生する。貿易の原理だ。自分の持っている商品を吟味しよう。当たり前だと思っているものが、他の国では価値を持つかもしれない。他の国の住人と広いネットワークを持っていることが価値をさらに高めてくれるだろう。同様に、他の国では当たり前のサービスを輸入しよう。やはり高く買ってもらえるだろう。

今日のTipsはただ1つ。
輸入するときは、自分も外国人の顔つきになった方がよく売れるよ、とそういうわけだ。